ナイジェル・マンセルが鈴鹿のサンドトラップに突っ込んだ日、日本はバブル末期でボクは小学六年生だった。
その翌日、教室ではマンセルのコースアウトの話題をしていた。
彼らは、昨日はじめてみたボクなんかより、マンセルについて詳しそうだった。ナイジェル・マンセルというF1ドライバーは、バブル期のF1ブームの中でも人気のある選手のひとりで、速いけどミスも多く、感情をむき出しにして走るタイプのドライバーだった。
そんなスタイルのせいか、チャンピオン争いでいいところまでいくのだけど、毎度チャンスを逃し、いつしか無冠の帝王と呼ばれていた。
ボクはそんなマンセルをいちばん好きになった。
だけど、F1はその年の鈴鹿しか観たことなかったから、いちばん緊張感があるオープニングからマンセルがサンドトラップに突っ込むまでの映像を繰り返しみた。
学校から帰ってきてはみた。
友だちがうちに遊びにきてもみていた。
雑誌やテレビでF1の話題がでてきたら食い入るようにみた。
頭の中がF1一色になった。
一瞬でカメラのまえを爆音で過ぎ去るマンセルたちは本当にかっこよかった。
F1にハマってしまったボクは、古舘伊知郎の実況や、解説者の今宮純などから発せられる、あらゆる新しい単語を覚えていった。
そのひとつに、アウトインアウトという言葉がある。
アウトインアウトをすると、スピードを殺さずにカーブを曲がれるらしい。
どうやらこれは基本中の基本らしい。
それを知った日から、ボクの自転車は基本に忠実になった。
忠実であるがゆえに、アウト側に寄りすぎてズボンに枝が突き刺さったり、イン側に寄りすぎて肩が塀を擦ったりした。
ギリギリを攻めてる気分だった。
そんなどこかぶっ飛んだクレイジーさも、一流ドライバーの条件であるかのように、ボクはますますアウトインアウトを徹底した。
また、スリップストリームといって、前車の後ろにピッタリくっついて走ることで、自車の空気抵抗を減らし、前車を追い抜くというテクニックがあって、もちろんボクはスリップストリームも実践していた。
自転車で前を走っている友だちをみつけると、後ろにピッタリとくっつき、いつだってスリップストリームからの追い抜きを披露してみせた。
そんなとき楽しくてニコニコしてしまう。
今思うと、はたから見たらかなり不気味だったように思う。
広大な北海道の大地で、後ろだけ嬉しそうに笑っている小学生のいる一団が、そこだけ高い人口密度を保ちながら駆け抜けていくのだから。
だけどあの日、アイルトン・セナのスリップストリームについていたナイジェル・マンセルは、コーナーを曲がりきれずにサンドトラップに消えていった。
その瞬間の物悲しさが、ボクを無性に惹き付けるのだった。
いつしかボクもどこかに消えていってしまうのだろうか。
ボクにとって、あの日あの年以前と以降が、まるで紀元前紀元後のような大きな区切りとなっている。
F1人気は、このあたりを栄えに少しずつ下降していったように感じる。
その頃のボクはといえば、中学校に進学し、重苦しい授業を受けていた記憶がある。
当時は「受験戦争」とか「お受験」なんて言葉が日常的に使われていて、いじめが陰湿化していることが社会問題になっていた。
トレンディドラマはピークを過ぎ、ドラマが多様化してきたそんな時代に、ドラマ『人間・失格〜たとえばぼくが死んだら』は放映され、赤井英和や、デビュー間もないKinKi Kidsなんかが出演した、いじめを題材にしたドラマも放映されていた。
そんな背景が象徴するように、バブルが弾けたあとの日本は、今まで以上に学力や学歴を重視するようになり、本来、抱えるべきではないほどのストレスやプレッシャーが、子どもに重くのしかかってていたのだと思う。
鈴鹿のサンドトラップに消えたマンセルは、その翌年、悲願のワールドチャンピオンになるのだが、クラス中の話題になるようなことはなかった。
自分が好きなものを共有する空間が、たった一年でなくなったのだ。
このあたりからボクは、ひとりを意識するようになった。
F1ブームに乗っかってただけのごくふつうの子どもたちにとって、その後のマンセルのワールドチャンプへの道は、どこか遠い世界の話であって、もしかしたら彼ら知るマンセルは、今でも無冠の帝王のままなのかもしれない。
音楽と想い出には深い関係があるから、誰しもある曲とある想い出が強烈に結び付いているなんてことはあるだろう。
それと同様かそれ以上に、ボクにとっての ”1991年F1鈴鹿グランプリ” は、強烈にあの頃のボクを結び付けて離さない。